『ひとは見た目が9割』という言葉があるように、感覚の9割を視覚に頼っています。
しかし、元々は聴覚、嗅覚、触覚、味覚を合わせた五感で生活していたはずです。
視覚に頼り過ぎていないか、再考する必要があるかも知れません。
視力が人より低い方を、視覚障がい者とか目の不自由な人、というふうに呼ぶ場合があります。
見えないのと見えるのと比べると、見えない方が劣っているように考えてしまいがちです。
しかし、それを個性として捉えると、また違う見方が出来ます。
〇〇坂という地名の場所を歩いていると、目の見えない人は、なだらかな傾斜を足で感じるそうです。
登り坂と下り坂を感じて、そうかこれが〇〇坂か、と。
一方目の見える人は、〇〇坂という地名なのに、なだらかなためにそこが坂だという事に気がつかなかったりします。
太陽の塔という、美術建造物があります。
真ん中に顔がついていて、手のような物が左右に伸びているように見えます。
これは、目の見える人が正面から見た視点の話ですが、実はこの塔には後ろにも二つの顔があります。
そうすると、果たして一つの顔がある方が正面なのかも、少し怪しくなって来ます。
目の見えない人は、オブジェなどを触ったりしてこの塔を認識するため、顔が一つしかないという見落としはしません。
目の見える人からしたら、見えないのは劣っていると感じてしまうかも知れません。
しかし、見えない方がしっかり感じ取れる事が多い場合があります。
また、視点が多いというか視野が広いというか俯瞰的に捉えるため、見えている人よりも見える、という見方も出来ます。
目を使わない、という修行が存在します。
それは他の感覚を研ぎ澄ませるためです。
しかしそれだけでは無く、見ること自体も研ぎ澄ませる事が出来るはずです。
目の見える人は、是非読んでおいた方が良いです。
目の見えない人は、そんな事知っているよ、とおっしゃるかも知れませんけど。