聖書は前13世紀から後1世紀という、千年以上の期間に作成された様々な文章集。
編纂から完結までも500年かかっている。
古代のユダヤ民族のために成立したもの
日本人:神は恐れ多い存在。選ぶ事はせずそれぞれの神を認める
一神教:自分たちは神を選べない
それぞれの立場は対極にある
聖書は物語。それ自体が掟になっている
いきなり矛盾が2つも出てくる
1、植物が先に作られ人が後に作られた
植物が後、人が先に作られた
2、男女が同時に作られた
男性が先、女性が次に作られた
これらに確定的な真実は無い
聖書に書かれている事は全て真実だ、と単純に考えるべきではない、と示されている
周辺文明の文学に影響されているところがある
神とは(あるようにあるもの) = (自分が動きたいように動くもの)
※ (全知全能)、(恵み深い)は人によるレッテル
神から民へ(恵み)、(救い)
民から神へ(崇拝)
神と民、相互の選びが排他的
出エジプトの物語
士師:外敵戦うための臨時の将軍。判断する人、裁く人、の意味
サムエル:最後の士師で、最初の預言者。サウル王を選ぶ
王は常に1人。頭に油を注いで任命する
→キリストを『救世主』とするのはかなり偏った見方
王は唯一の神の子
カインとアベルの話
神のように振る舞う王を賛美する話、とも読み取れる
宗教的迫害:神にしか行えないことを人が勝手に行っていることが問題
悪い者たちを滅ぼすことを神がしていない
→迫害は神の判断ではない
宗教は神の権威を背景にした、人集めのための人間的行為
人は生まれると罪の状態にある、ということになっている
一神教は、民が罪の状態
→民が不幸でも神のせいではない
→神の沈黙が正当化されている
→何があっても民は神を見捨てない
神は休む、天地創造の7日目にいきなり休んでいる
神は人と契約を結ぶのか?
→もしそうなら、神より契約が上になる
人が神を動かせるのか?
神の前で何が正しいのかを、人が具体的に知っているのか?
→神の前の義が可能か?社会的な義は可能だが
「聞け、イスラエルよ。あなたは心を尽くして、あなたの神を愛しなさい」
愛は命じられるものか?
愛の要求というよりは、人の全身全霊の社会的拘束を求めている
神との関係の変化は、神の態度の自律的な変化により生じる
因果応報の考えでは、まだ浅い
将来は良くなるという希望が述べられている
聖書は一字一句変更不可
これを正典(カノン)という
人の頭には言葉で表せない物も去来している
人が変化しても罪の状態にあるのは不変
律法を完璧に尊守するのは不可能
律法主義:人が罪の状態にいて、神が動かないことが前提。常識的な律法を身につけて社会でそつなく暮らす
人生や人を肯定して素晴らしい価値がある、というイデオロギー
→つまらないものはつまらない、虚しいものは虚しいと言って良いのではないか
神殿では、神は民と繋がっている
プロゼリット:ユダヤ教に改宗した者
シナゴーグ:集会所。安息日である土曜日に聖書朗読会を行う。この活動があるから、ユダヤ人のまとまりが存続している
ペルシア政府に書類を提出するときに、ユダヤの神から全人類の神になった
神の立場に立って考えることは、困難
聖書は相反する物も含めて様々な立場が主張されている
神がこの世を作った。
この世は悪で、必ず滅ぼされる
新しい世が創造され、それは善
人が努力により救われると考えるのは、神に命令するようなこと
キリスト教:律法の権威を退けている。聖書の断片を格言のように利用している
聖書は全体での主張を尊重するのが本来の姿
日本でいう旧約聖書。
新訳聖書に比べて非常に難解です。
物語として楽しめる部分も多いのですけど。
重層的で多面的で不条理ともとれます。
自分ではどうにも出来ないことがある、というのは仏教の主張とも通じるようで興味深かったです。
当時のある種のユダヤ教徒がイエスを受け入れられなかったのか、朧げながら掴めたような気がします。