歴史の授業で曹洞宗の開祖は道元である、と習ったことを覚えているでしょうか?
ある大学教授は道元の著者である正法眼蔵を、お前ら学生にわかってたまるか、と言いました。
心の中で、俺にもわからないのに、という言葉を抱えながら。
道元は自ら宗派を決めて名乗る事はしなかった
正法眼蔵を著すことにより、訪れていない地域の人や、未来の人たちをも救おうとした
言語で伝えられないものを言語で伝えようとした
言語では言い尽くせない大切な教えはある
正しい教え=正法眼蔵
現実を生きる
→あらゆることを正しく捉え、正しく行う
多様性を認めつつ、自ら信じる道を生きる
それぞれの場所で、それぞれの現実を真剣に生きるしかない
常に(今)、(ここ)、その他に私は存在しない
すべての生物は同じ空間、同じ時にある
時間には隙間がない、すべては連なり1つで存在している
私、生きる、時間、世界は皆1つのこと
仏教は物事を分けて考えることを嫌う
人は自分の能力(感覚)の及ぶ範囲ですべてを認識している
→ただしわかっていないだけでそれは存在する
すべての苦しみは心にある
→コントロールするのが大事
人の数だけ別の世界がある
心が汚れていたら世界も汚れる
→生き方で世界はどのようにでも変わる
自分の思いが正しいわけではない
愚直であれ
飛蚊症の人にとってはそれは現実
行為はただそれだけを行う
宗教家というより、哲学者の言っていることのようにも感じられます。
凄い人っていますよね。