はてなインターネット文学賞「記憶に残っている、あの日」
わたしは府中刑務所の独房にいます。
捕まってから今日に至るまで、あの日を考えないことはありませんでした。
何をしているときでも頭の片隅には違和感を伴ってそれがあって、霧か雲のように靄がかかって湿っています。
ふとした時にそれが大きくなって思考の全てを占めた途端に、頭を抱えたり、声にならない声が出たり、叫んだり、床に頭を打ちつけたりしてしまいます。
記憶に全く残っていないけど、何度も何度も思い返すうちに、いつしかありありと動画を頭の中で再生できるようになった、あの日。
数年前から、酔って記憶を無くすことが度々起きていました。
夜中にトイレに行ってそのまま便座に突っ伏して寝ていたり、ニ階の寝室で寝たはずが一階の玄関で目覚めたり、スマホの画面が割れていたり、友人を怒らせたり。
この一時的記憶喪失を『ブラックアウト』と呼ぶのだと知ったのは、わたしが妻を殺害した事件の公判をしている時でした。
アルコール依存者が深酒をした時の記憶が無くなっているのを、そう言うのだそうです。
血塗れになった妻が倒れています。
全身に裂け目や穴が空いていて、ズタズタでボロボロです。
「いったいどうしたんだろう?」
そう思った自分は右手に包丁を握っていて、肩で息をしています。
ついさっきまで猛烈に腹が立っていたのだけど、それがどうしてだったのかは、最早覚えていません。
息が整ってくるのと入れ替わるように、全身から汗が吹き出してきます。それは妙にベタっとしていて冷たかった。
それがその日わたしが最初に持っている、実際の記憶です。
「あなた最近疲れているんじゃない?」
「飲み過ぎることが多いみたいよ」
「しばらく飲むのを減らしたら?」
妻にそう言われる度に、やり切れない気分になっていました。
「うるさいな、わかってるよ」
そう言って睡眠や家の外に逃げていました。
何もわかっていなかったのに。
毎日毎時間あの日のことを考えるうちに、いつしかそれは鮮血の飛び散る赤い映像と、ズクッ、ズクッという音と、鉄分と失禁の臭いと、さらには包丁の刃が肉にめり込む感触まで、ついさっきの出来事のように再現されるようになりました。
あれから7年間。
無かったはずの記憶が、片時も頭を離れない終生忘れられない記憶になりました。